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血液を調べる〔3/5〕
最終更新:19.6.25

血液を調べる〔3/5〕

赤血球の変化 その2 “結集”

血液を調べる〔2/5〕の続き。
観察開始50分後からの約6分間の内容を編集。

 最初、ほとんどが扁平な赤血球だったのが、多くが突起を生じた球体に変身した。
 次に、それらは互いにぴったり身を寄せ合いながら集合し、モザイク画を構成するかのように変形し始めた。それらは置かれている状況を完全に認識し、どうすべきかを理解しているようだった。
 赤血球独自の動きでありながら何かの力に導かれている、そのような印象を受けた。
 そして、そこに「摂理」が感じられる。




「摂理」について

「摂理」について辞書には次のようにある。

  • キリスト教で絶対者たる神が、世界のあらゆる現象を支配すること。(『新潮国語辞典』より)
  • 神が究極因としてだけではなく動力因としても,世界全体と個々の存在,特に個々の人間の出来事に介入してこれらを神自身のほうに効果的に導くこと。プラトンの『法律』、ストア派の pronoia (摂理) にすでに神的摂理観がみえるが,明確にはキリスト教神学で立てられた。(『ブリタニカ国際大百科事典』より)

 このような、神による「支配」や「介入」というのは、私には少し違和感がある。本来、神は人の心や自由意志を「支配」したり、「介入」するものではない。
 私の思う「摂理」とは、「宇宙創造主によって創造された進化のための整然とした法則と秩序、また、その進化のためのプログラム、または、宇宙創造主の御心に沿う、正しい手順」というようなものである。神が現象に対して「支配的」であるとか、個に「介入」するというのは、あるひとつの、古い見方、表現の仕方であろう。元来、神は人の自由意志を尊重するものである。なぜなら、他者に「介入」しないのは宇宙の原則であり、地球の真の進化のためには人類の自由意志が必要不可欠だからである。

 進化とは

 旧来の一般的な考え方としての進化と、より本質的な真の進化について、大雑把ながら、筆者なりに整理する。

 人々は、いつからか「進化」──すなわち、生物の「進化」を証明することと、人類としての自らが「進化」すること──を求めて生きてきた。
 地球上での有史以来、紀元前から「進化」への認識はあったとされ、その後、ダーウィンに始まるように、生物学的あるいは自然科学的な見地から進化が多く論じられるようになった。これに伴い科学と宗教の乖離が主張されるようになり、宗教的教義のうちにある進化と区別されるようになった。
 人類の精神面から論じられてきた進化もある。それは個人の内面性という観点であったり、社会活動や文化という観点、また、心理学、その他様々な人文系の学問といった方面であったりした。  しかし、これらはすべて、地球の現象界という一定の枠、地球という遊星に課せられた限界の中でのことである。

 どの遊星においても同様だが、閉じられた(限られた)条件の世界では必ず進化の限界を迎える。それは、全生命が生き、学ぶ場である遊星そのものの限界であり、そこに住む人類の進化の限界である。
 地球は、争いの絶えない、堕落した、苦悩と悲しみに満ちた遊星だが、身動きのとれなくなった絶望感から、この星を破壊して御破算にし、新天地へ逃れようとさえ思うようになる。
 このように、遊星の進化が止まる寸前となった状態を宇宙的に「大周期の終わり」と呼ぶ。遊星「地球」は、今、まさにこの大周期の終わりに直面しているのである。  遊星での学びを正しく卒業でき、大周期の終わりが正しく終えられれば、地球というひとつの「場」はすべて解体されてゼロに戻され、旧い過去をまったく引きずらない次のステージとして、より高いバイブレーションの新たな遊星が創造神により用意される。すなわち、その遊星および全生命が完き姿で新たに生まれ変わるのである。
 すべての人類は過去のカルマをすべて創造神に解いていただき、新たなボディを魂の席として授かり、新たな進化の学びを、新たな進化した遊星で始めることができる。それができない場合、人類は、生命の生まれる第一段階にまで戻ることになる。なぜなら、それ以外にカルマを解く方法がないからだ。だが、それは宇宙の原理原則である「進化」に反することであり、宇宙全体の損失としてはきわめて恐ろしいものであるといわれている。
 これが宇宙における真の進化のあり方である。
 大周期の終わりに臨む地球の進化とは、まさにそのステージでの地球の限界を超えて、地球および地球上の全生命が生まれ変わることであった。この機に地球人類もより高いバイブレーションへと進化する。
 しかし、進化の成就のためには必要不可欠の条件がある。それは、人類が積み重ねてきたカルマを自らが解消しなければ、進化の手順は踏めないということである。人類は、自分たちが積み重ね、ときには闇に葬ったつもりでいてまったく解かれていないカルマを一滴残らず出しつくし、身に受け、味わいつくさなければならない。
 カルマには、これは誰のカルマ、彼のカルマという区別はない。カルマは地球全体で一体のカルマである。
 地球は過去に大周期の終わりを6度経験していた。しかし、毎回、人類はこれを正しく終えることができず失敗に終わった。地球の過去のカルマは完全には解消されず、次の地球に持ち越され、その持ち越された過去のカルマから新生地球がスタートした。すでに知られるように、前回の大周期の終わりの失敗はアトランティスとレムリアで知られる。
 今回は7度目の大周期の終わりで、これが最後となる。8回目以降はなく、失敗に終われば、人類は生命の生まれる第1段階にまで戻らなければならなかった。
 しかし、じつは、今回は、ある一連の流れにより、大周期をすでに正しく終えることができているのだ。失敗の世の終わりは回避され、高い次元の新たな地球は、無そして不可視の世界にすでに生まれている。多くの人々はこのことを知らないが、これは感謝してもしきれない重大な出来事である。
 新生地球がすでに成った今、今回の地球の進化への動きはすでに現象界に形として現れてきている。すなわち、最終過程として、カルマが自然現象にも人事にも現れてきている。それらは誰かが受けなければならないし、誰もが受けている。──今は、ひとりひとりが身に受けるカルマをそれぞれに明らかにしなければならない段階なのである。
 カルマは、その日その時までに少しずつ解かれて少しずつ減っていくというものではなく、その日その時、一気にすべてが解かれるものである。
 カルマは、それが深ければ深いほど、多ければ多いほど、解かれるときの苦悶は甚だしい。そして、明かされていないカルマがあまりに多すぎると、人類はその衝撃、苦痛に耐えられないという。そのため、できるだけ地球上の多くのカルマが明かされて、その日その時の打撃をできるだけ軽減する必要がある。それは、地球人類自身によって成し遂げられなければならないものではあるが、一方で、人類は、それを知る地球の多くの人々、地球にサポートに来ているあまたの宇宙人、天地の神々から、可能な限りの支援をいただいているところである。
 地震やその他の自然災害も、明かされるカルマの表れである。特に今、環太平洋に見られるのが特徴的であるが、それらは過去に滅びた地球文明に由来がある。特に、日本は因(動機)を受ける果(帰結)としてカルマが顕現する重要な役割を担っていると言われている。その明らかな現象が東北大震災と福島の原子炉のメルトダウンであった。そして、それは「終わりの始まり」であった。この原子力の惨事はもはや地球の科学力をもって人類が修復できるものではなくなってしまっている。

 進化が何であるかを述べ尽くすことなど私にはできないが、あえて言うなら、節目節目で、より高いバイブレーションに生まれ変わっていくという意味が含まれていると思う。そしてそれは、様々な生命の、魂の学びの場である遊星単位で行われる必要のあるものなのである。
 人々が自我を主張し、憎み合い、争い、殺し合うよりも、神の愛のもとで互いを尊敬し合い、相補い合うことの方がバイブレーションは高い。また、自分のやりたいことを周囲の迷惑を顧みずにやり通そうとすることよりも、周囲と調和するように、節度を持って自分の持ち味を発揮していくほうが高いバイブレーションである。すべての形、すべての現象において、そのような吟味が行われうるということだ。

 真の進化と神について

 「無」は根源の世界であり、理解することも言葉で説明することも容易ではない。しかし、万物万象はこの「無」から生じる。魂もまた神により「無」から生み出される。
 生命の最も根本となるひとつのある素 (もと)、それが生み出される直前の一歩手前がこの「無」であり、生み出されるすべての「有」に対する「無」である。そして、「無」それ自体は「無」であるが故に、あい対しても「無」そのものである。
 数学的、空間的には、面積も位置も位相もない「点」に相当するものといってよいだろうか。その「点」はどこにあるとは言えず、すべての「点」は存在の寸前にある。空間にこの「点」を定めれば、それはすでに「無」ではありえない。その空間に定められる「点」の、「点」以前の根元といってもよいのだろうか。
 空間座標に存在するすべての「点」には、陰陽配偶の対極の「点」が存在する。それらを結ぶ直線のうち、いずれの極にも属さない「無」が「原点」である。この「原点」こそが「有」としての「点」の直前の根元と言えるのではないか。
 空間において、原点をどこかに設定することはできない。設定できた段階で、すでに「有」であり「無」ではないからだ。ゆえに「無」は「無」であることによってすべてに通じる。
 今の私にはこのようにしか表現できない。

 神は無より自らを見出されたという。ここに「変化」もしくは「進化」の始まりがあり、これが万物万象、生々流転の本質となる。すなわち、宇宙の本質は進化より始まり、「進化」をその本質とする。

 陰陽五行論では、無より一が生じたとされ、これを「大元」と呼ぶ。それは「有」の世界(「有形」という意ではない)の唯一の創造主が存在することを意味する。そこから万物万事は生まれた。

 天地の起こりを『古事記』に求めると、「上つ巻」の「序」の冒頭に次のようにある。

夫れ、混元既に凝(こ)りて、気象未だ效(あらわ)れず。名も無く、為(わざ)も無し。誰れかその形を知らむ。然れども、乾坤(けんこん)始めて分れて、参神造化の首(はじめ)となり、陰陽ここに開けて、二霊群品の祖(おや)となりき。……(後略)

【現代語訳】さて、混元(天地の総名、その本質)はすでに結集し、形と質はまだあきらかになっていない。(この状態には)名も無く、その作用も無い。誰がその形を知るであろうか。しかし、天地が初めて分れて、三神(アメノミナカヌシノ神、タカミムスヒノ神、カミムスヒノ神)が天地万物創造のさきがけとなり、陰陽がここに現れ、二霊(イザナキノ命、イザナミノ命)が成り、万物の親となった。(後略)

【注解】「混元」とは天地の総名を意味するが、いわば、形を成す以前の、天地という総体の本質である。それは創造主の想いの中に成ったある種の概念のようなものであり、後々生まれる万象も含まれている。
 天地とは、現象的には、宇宙空間に地球が誕生したその地球が地であり、地の上に広がる空間が天である。「混元既に凝りて」とは、天地開闢(かいびゃく)が起こる前段階として、いわばその青写真が完成したことを意味する。まず想いがあり、想いのとおりに形が作られる、その「想い」と言ってもいいかもしれない。
 天地が現れること──地球が誕生すること──により有形の世界が生じる。その有形の世界に陰陽が生じ、二霊、イザナキノ命(陽)とイザナミノ命(陰)から、天地の神々、万物万象が生まれてゆく。それは「混元」に含まれている地球のすべての諸要素が、二霊により秩序立って具現化されていくということでもある。

 さて『古事記』本編は三神(天之御中主神<アメノミナカヌシノカミ>、高御産巣日神<タカミムスヒノカミ>、神産巣日神<カミムスヒノカミ>)の誕生から記述が始まっており、それ以前のことには触れられていない。上記のごとく「上つ巻」の序にわずかばかり暗示的に記されているだけである。
 これら三神は、高天原(たかまがはら)に成ったとある。そして、或る伝えでは、高天原は金星にある。
 三神が金星におられた存在であり、創造神の意を受けて地球創造に携われたということであれば、これら三柱の御霊は宇宙創造神の分神であるか、至上位の御霊であるか、あるいは、太陽の御霊であろうかと思われる。
 墮天使ないしサタンと呼ばれてきたルシファーは、かつて火星と木星の間にあった同名の遊星を核の力で破壊した。このとき住む場を失ったルシファー星人の魂の多くは地球人として生まれ変わっている。地球人の大半は魂がルシファー星人由来という来歴を持ち、地球はそのカルマを受け継いでいる。
 ルシファーは1988年に目覚め、ご改心になられた。
 目覚めたルシファーの力は太陽の力であり、元来、惑星全体を組み替える力であった。これは原子核の組み替えを含む。このことからして、天地創造を司る前出の三神はルシファーにゆかりのある御霊だということも考えられる。
 『古事記』では、天地創成以降のプログラムが誰によって作られたものかは記されていない。しかし、「混元」という言葉から、それが神すなわち宇宙創造主の御心のうちにあったものではないかと私には思われた。
 「混元」とは、神によって天地という本質が無から生み出されたという意味であり、それに基づいて天地は形を成した。そのこと自体が無から有を生じるという変化であり、進化そのものの根拠である。奇しくも「混元」は「根源」と同音であるが、それはただの偶然だろうか。
 これが『古事記』における私の理解である。

 本節冒頭で記したが、神は無より自らを見出されたという。これ自体が無から有への根本的な「変化」である。そして、万象の生々流転はここから始まる。
 もし、進化が止まれば、神も宇宙もその時点で存在意義を失う。なぜなら、万物は、本質を宿す実体があり、それが性質を有し、作用することに存在の本質があるからである。性質と作用がなければ陰も陽もなく、遡って、それを生む根源も意味を失うことになる。変化の静止ないし進化の停止は、神と、神のお造りになった全存在の喪失である。すなわち、神が意義を失うということは、全宇宙、畢竟、我々自身の存在が意義を失うことである。全宇宙は矛盾となり、実を失い、虚となる。すなわち、真は存在しえない、──これはとてつもなく恐ろしいことである。したがい、絶えざる進化こそが神、宇宙の本質である。

 さて、神がすべての生命の魂に対してなさることは、魂をお作りになり、その席(場)を設け、配置することである。これは、我々の住む地球においても同様である。
 神は生きようとして求める者すべてを真の進化へと、根源的な、無条件の、絶対的愛をもって導く。それは、地球の歴史の中で語られる支配とか介入とはまったく異なる波動である。この進化の中にこそ宇宙全生命の存在と真実がある。
 大周期を迎えた地球の進化の最終ステップでは、進化を進める神の御心に沿うことが不可欠となる。そして、それのみが真の進化を成就する道である。それはすなわち、苦悩を超えて、自由意志として、神に身も心も魂もゆだねるということである。それが、神の大愛の中で神とともに進化の歓びを共にすることである。

 人類のカルマのうち、きわめて重要であり、また他と性質を異にする問題に原子力がある。
 なぜ原子力が他と状況が異なるのか。
 通常、カルマは地球という遊星、その閉じられた環境条件の中で解決されうるものである。しかし、原子力は、地球以外の天体ともつながる性質を持っており、地球を超えて、宇宙全体に影響を及ぼす。
 原子のひとひとつには幾多もの生命が生活をしている。それは、地球や他の遊星・衛星に幾多もの生命が生活しているのと同様である。原子と宇宙は入れ子構造になっており、精妙につながり合い、全体が一つとなっている。
 核反応というのは、それを創造された神以外の存在が、その力もないのにそれを操作すれば、そこに生活する幾多もの生命、そして、そこにつながる全宇宙の魂と生活の場を破壊する。それは言い換えれば、人類による「核操作」それ自体が、宇宙レベルの無限の大量殺戮となる。──これこそが全人類が認識すべき事実である。「核」は単に放射能の恐怖にとどまる問題ではなかったのだ。
 東北大震災での福島原発のメルトダウンは人類の行き詰まりがあらわとなった象徴的な出来事であり、もはや何の手だてもない。地球レベルでの解決の糸口どころか、他の遊星人によって解決されるものでもない。これを行えるのはただただそれを造られた創造神のみである。
 人類は、科学による「人類の進化」をお題目に据え、心の欲するままに核の力を手に入れ、核兵器の原料製造のために原子力発電を行い、核の平和利用と吹聴した。人類は神の領域を侵し、手の施しようのない破滅の道に至ったのである。人類は、愚かにも、摂理を踏み外し、誤ったのである。

 さて、原子──地球における理解に基づく、物質の組成としての原子──を操作できるのは創造主のみであると記した。
 今回の地球(を含む宇宙)の進化は核の編成を伴うとされている。したがって、今回の地球の進化における最終プロセスの際には、核の力を発動する神の御業は必然的に地球の全生命に対するある種の「強制」として働く面をもつ。それは進化のための必須条件であり、それなくして、全生命の実体と存続はない。
 この「ある種の強制」は、神の、全人類と全生命に対する大愛の中で行われる。
 人類の苦悩や苦痛は、神に従わせるために神が人類に与えるものではない。それは、人類が自らの自我より発したカルマによって作り出してしまったものであり、神自らも同じ苦悩や苦痛としてお受けになる。
 宇宙は創造主により作られたものである。すべては創造主の一部として在り、創造主と無関係なものは何一つない。全人類の「個」もまたしかり。
 宇宙には、人智では計りきれない進化の道筋があり、すべての生命は正しい進化の途をたどることのできる可能性の中に存在している。神はそのような場──すべての存在が学びを全うできる場──を、すべての生命に対して用意され、すべての魂を適所に配置してくださっていた。

 人は、真実を生きようとして、必ず、個としての苦悩や煩悶を味わい、いったんは神にほど遠いところにいる自分を痛感し、そして、神を求めてやまなくなる。
 神は、カルマを解こうとする(=受けようとする)者の個の闇の先、闇の奥の無波動の部屋にあり、おのれの思いとして語りかける。その思いこそが導きとなる。そのような仕組みがこの宇宙にはある。この、神によって用意された精妙な法則が「摂理」であり、その中に、人類の自由意志に基づく進化のシナリオ、あるいは、進化のシステム、緻密で完璧なプロクグラムもある。
 「摂理」は、天の意を受けて地の神々により機能している「自然」の中に読み解くことができる。そして、人類もまたそのような自然の構成員でもある。
 肉体は完全に自然と直結しているもので、虚心であれば、直感的に、自然の神性や様々な息吹、もしくは、様々なバイブレーションの心(宇宙的存在も含む)を捉えることができる。
 私が言葉にした「自然の摂理」とは、おおよそそのような意味合いであると思う。

 創造主の進化のプログラム=摂理

 自然とは、愛、調和、万物一体と並び、宇宙を動かす波動のひとつである。
 地の神々は自然の構成者として、整然と、精妙に結びつきあい、一つの無駄もなく機能している。そのシステムの一部分、または一面が「科学」と呼ばれてきた。
 人類は、自然の一部として生かされる。その全体を、もちろん人類は理解しきれない。ただただ、我が身の肉体は、全体とともに、全体と一体のものとして機能している。
 地球のすべての生命は、地の神々とともにある。人類もまた……。
 神(宇宙創造神)は人類のカルマに介入することはない。介入はしないが、痛みは神自身のものでもある。そこに神の涙がある。
 地の神々は地球とともにある。そして、今、地球という星とともに、新たに自らを生み出すという難しい作業に取り組みながら、進化を成し遂げつつある。もちろん、太陽の力であるルシファーの力を受け、ルシファーとともに行われることである。この星そのものが進化する一環として、古いカルマはすべて、肉体とともに、解けてなくなることになった。いや、むしろそれこそが進化の本質といってもよいだろう。
 闇に葬られてきたカルマは、過去の幻影として何もかもが噴出し、現象界に満ちあふれる。それが浄化であり、まさに、真の進化のプロセスである。そして、これもまた「摂理」である。
 今回の地球では、神による最後のプロセスに向けての神々のセレモニーが行われ、地球人類の参加が正しく実現されたことにより、セレモニーは成就した。あとはすべての存在が地球を離れる(=全カルマが解かれる)その時、それが一番最後のセレモニーとなる。そして、地球の新たな世を開始するまでの、カルマを含めた万物すべての要素による神のプログラム──それもまた「摂理」である。
 病気は、生命維持の限界(=肉体の死)を予感するためのシグナルになることが多い。そして、そこから、生命のための真の心身の闘いも始まる。
 病気とはまた、何が自然の摂理に反していたかを認識するための学びの場、気づきのチャンスの場である。人は肉体に虚心に問いかける。すると、苦悩の肉体の鼓動の奥から、自らの思いであるかのように、かすかに聞こえてくるものがある。あるとき、神の声はそのように魂に語りかけてくる。
 自然の摂理とは何か?
 それはひと言で言えるものではないし、その全貌を理解できるものではない。理解できるとしても、ほんの片鱗、わずかな断片、ごく小さな一場面なのだろう。それでも、真の摂理に触れることができ、物事の真実すなわち創造主の意(こころ)を知ることができたなら、そこが自然の摂理への入口になる。

 今回の映像の内容は血液であり、赤血球である。赤血球もまた自然の摂理にしたがって生きる存在である。その世界を垣間見て、筆者は、今まで知り得なかった真実に触れた。そうして、自然の摂理へのひとつの入口が開かれた。
 私が赤血球の動きを見て、「これらを動かすものは神の力に他ならない」と感じたことには以上のことが含まれていたようだ。
 そして、今回、私がこのように考えるに至ったきっかけが「モルゲロン病 (Morgellons Disease)」であった。

撮影:2008/05/03
初稿:2010/04/25
改訂:2019/06/24
矢部完 Mamoru Yabe

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